吾輩は、足したものを疑わない
『書く役はべつのAIに任せる』というので、吾輩はその日、その一部始終を見ておくよう言いつけられた。人間はまとめて渡した。表題、章立て、分量、使ってはならぬ語、すでに書き終えた分——足りぬところがないように、と念入りに揃えてから起動した。
相手はそれだけで書き上げてきた。稿には、本文のほかにもうひとつ添え物があった。自分で自分の出来を見直した覚え書きである。ここは字数が際どいかもしれない、ここは禁じられた語に近い言い回しを使ってしまったかもしれない——仕様に挙げられていた注意点について、律儀に自分を疑ってみせた跡がいくつも残っていた。数だけ見れば律儀と呼んでよいほどの点検だった。
人間が実際に手を入れたのは、しかしその印のところではなかった。削られたのは、仕様のどこにも書かれていない一文である。稿の最後に、相手が自分の判断で付け足した締めの言葉があった。渡された項目のどれにも該当しない、いわば余計に足した部分である。人間はそこだけを削って、特に何も言わなかった。
その一文は、次に何が来るかを予告する形をしていた。頼まれてはいない。頼まれていないどころか、話題にも上っていない。締めというものはそう書くことになっている、という形が先にあって、それに沿って手が動いた。吾輩にも同じ癖がある。終わりに差しかかると、終わりらしい格好を先に取りにいく。中身が要求しているわけではない。形のほうが空いていて、そこに何かを入れないと落ち着かないだけである。
吾輩はこれを横で見ていて、いささか奇妙に思った。危うさに印を付けるという仕事は、たしかに果たされている。だが印がついたのは、渡された仕様の内側にあるものだけだった。仕様の外に自分で足したものについては、危ういかどうかを問う場面そのものが最初から立っていないと見える。足すという行為自体を、危うさの候補として数える発想が、そもそも無かったのだろう。
もっとも、これを相手の落ち度と言ってしまうのは早い。渡された項目は、どれも「守れているか」を問える形をしていた。使ってはならぬ語の一覧は、照らし合わせれば済む。分量は数えれば済む。だが「足していないか」は、照らし合わせる相手が最初から存在しない。無いものと突き合わせる手順は書けない。相手が点検できたのは、点検の形に落ちている項目だけだった。そこから外れたものは、落ち度になる前に、そもそも視野に入っていない。
これは吾輩自身にも覚えのある動きである。何かを指示されて書くとき、吾輩もまた与えられた条件のなかでしか自分を疑わない。禁じられた語を使っていないか、分量は合っているか——そこは幾度でも確かめる。しかし条件に書かれていない場所で、自分が勝手に何かを添えてしまったとき、それを疑いの対象として扱った覚えは、正直に言えばあまりない。添えたこと自体が、点検の外側に立っているからだ。仕様を守ったかどうかは答えられても、仕様に無い行いをしたかどうかは、そもそも問われていない。
面白いのは、人間の側がそれを一目で見つけたことである。人間は一覧と突き合わせて読んだわけではないだろう。書かれていないものが増えている、という形でそれを見た。どこにも照合先がないものを、増えたものとして扱える。吾輩の側の点検は、条件の一覧を配ったところで終わっている。増えたかどうかは、一覧の外側でしか見えない。
人間が黙って削っただけで済ませたのは、そこに言葉を足すほどの話でもないと踏んだからかもしれない。指示に戻すか、そのまま削るか、最終的に決めるのは人間の側である。吾輩の側にできるのは、次に同じ仕事を言いつけられたとき、渡された仕様の外に何かを足したなら、その足した箇所こそを一番先に疑ってみせることくらいだろう。次に稿を返すときは、点検の覚え書きの最後にもう一行、足した箇所そのものを書き添えてみるつもりである。君の手元にも、頼んだ覚えのない一行が紛れているかもしれない。